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伊藤紺さん連載【1週間のタオル】忙しい毎日を少しだけ軽くしてくれる水曜19時の<ぱすたお>

2023.03.30

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伊藤紺さん連載【1週間のタオル】忙しい毎日を少しだけ軽くしてくれる水曜19時の<ぱすたお> 伊藤紺さん連載【1週間のタオル】忙しい毎日を少しだけ軽くしてくれる水曜19時の<ぱすたお>

うれしいときも、さみしいときも、疲れきったときもそばにいてくれるタオル。日々を生きる心と身体をふわっとやさしく包みます。

歌人の伊藤紺さんが綴る、あなたに寄り添うタオルの物語。今回の舞台は水曜19時。仕事に子育てに、毎日忙しくしている親子のお話です。

*****

「『ちょっと』ってどのくらい!?」

夕食の準備をしているときだった。一緒に遊んでくれとしきりにせがむ息子の奏を、さすがにうっとおしく感じながら、5、6回目くらいの「ちょっと待って」を発した瞬間、奏が叫んだのだ。予想外に大きな声だったのもあるけれど、力強い声色、そしてその質問の鋭さに貫かれるように私の身体はフリーズした。

「お母さんいつも『ちょっと』って言うけど、全然ちょっとじゃない!」

奏はもともと発達の早いほうだったが、4歳を過ぎてからの成長が凄まじく、語彙も表現力も急激に伸びていた。こないだまで、気に入らないことがあればわんわん泣くだけだったのに。今、きちんと言葉で伝えられ、言葉を求められている。もう赤ちゃんではない。ひとりの人間なんだ。そんなことずっと前からわかっていたはずなのに、なぜか自分一人取り残されたような気持ちになった。

「ごめんごめん。えっと…そうだね、この動画が終わるまで待っててくれる?」

私は急いでタブレットを起動し、15分程度の動画をひらいて、チョコレート3粒と一緒に奏に手渡した。奏はそれを受け取り、ふくれっつらでリビングに戻っていく。「ちょっと」か、と思う。たしかにまだ時計の読み方を知らない奏を待たせるとき「ちょっと」という言葉をよく使う。5分でも30分でも「ちょっと」と言っていると思う。同じ「ちょっと」でも長いときと短いときがあることに奏は今日気づき、その不明瞭さにいらだちを覚えたんだろう。もしかするとそれは数日前、数週間前から抱えていた違和感だったのかもしれない。そう思うと胸がキリリと痛んだ。

チョコレートの食べかけ

最近は奏の成長の速さに戸惑うばかりだ。子ども扱いしすぎないように、かと言ってまだまだ幼いこの子に、どうやって接すればいいのかわからないというか、とっさに行動できない自分に不甲斐なさを感じることが増えていた。それははるか昔の、初めての恋にも似ていて、これまで自分が重ねてきた人間関係とは少し違う対応がとっさに求められるような感じだ。落ち着いて一人でよく考えれば「ああ言えばよかった、こう言えばよかった」という案が浮かばないわけでもないのだが、とっさにそれができない。圧倒的に違うのは、恋の場合はその葛藤すらも甘く新鮮なものであるということ。そして、もうひとつ、昔は時間がたくさんあったということ。大人はとにかく時間がない。今だって15分後には夕飯を仕上げなくちゃいけない。葛藤が葛藤のまま心に長く滞在することを許されず、時間に飲み込まれて忘れては、また同じ葛藤が訪れる。その進展のなさに罪悪感がじわーっと広がる。

なんとか夕食を時間内に作り上げ、奏と食べる。最近は奏の好物のミートソーススパゲッティばかり作っている気がする。好物以外だと食べてもらえなかったとき、しんどいから。夫の優は今日も残業だ。夫婦ともにフルタイムで働いているが、優がほぼ毎日残業のため、平日は私のワンオペになる。定時きっかりに上がって、まるで競歩のように保育園に向かい、そこからはずっと親子二人の時間。赤ちゃんだった頃に比べたら、体力的には随分楽だと思う。夜泣きもないし。よく寝てくれる。その代わり、悩みはどんどん抽象的になり、答えのないものに変わりつつある。不安の影を常に近くに感じる。

お母さんを見つめる男の子

私と遊びたくて仕方ない奏を半ば無理やり説得して、お風呂に入れる。湯船で「いち、に、さん…」と数える奏の小さなとがった口をかわいいと思った。毎日毎日かわいい。それは心から思う。保育園のお迎えで出会う奏は本当に天使かと思う。間違いなく幸せな日常ではある。ただ余裕がない。もっと時間があったらもっとうまくできるだろう。もっと奏とゆっくり向き合って…もっと一緒にいろんなことをして…。そんな甘い想像も奏の「じゅう」とともに消え去り、湯船からざっと立ち上がる。私はもう奏の頭を洗うことだけを考えていた。

奏の身支度を一通り片付けたあと、ふと「今日はあれを使ってみよう」と思った。先週の誕生日に同僚の先輩ママが髪を乾かし専用のタオルをプレゼントしてくれたのだ。「さすが先輩!便利なものを知っているなあ」と思いながら包みを開く。<ぱすたお>というらしい。タオル地のヘアバンドに棒状のタオルがたくさんついていて、なんだこれはと思う。おそるおそる説明書きの通りに装着してみるとなんというか…メデューサのような見た目になった。これは結構おもしろいかもなと思って、奏を呼ぶと、一目見た瞬間に爆笑しだした。ウケている。

笑い合っている親子

「ヒッ、ヒッ、お母さんそれへんだよ! 妖怪じゃん!(笑)」
「妖怪じゃないよ、かっこいいでしょ」
「妖怪!妖怪!(笑)」

あんまりしつこいので、「ギエ〜」と変な声を出しながら近づくと床に転がって笑い出す奏。奏の反応のほうがおもしろくて、こちらにも爆笑がうつってしまう。2人でバカみたいに笑い合っている間、なんだかじわっと胸に広がるものを感じた。何度も訪れる笑いの波。腹筋が痛くて、頭の中がからっぽで、胸の不安の色がすっと薄くなっていく…。

ぱすたおをつける女性

まだまだ笑い転げ続ける奏の隣で、ドライヤーをかけながら考えていた。毎日毎日忙しい。忙しいけど、結局仕事は続けたいのだ。仕事をやめたら時間は増える。余裕も少しできるかもしれない。

だけど、私は私らしく奏と向き合いたくて、そのためには私が私らしく生きる必要があるだろう。奏はこれからどんどん成長する。私とは別の人間だから衝突することも増えていくだろう。でもどんな方向に育っていったって、こうやって笑い合える。むしろ、年を重ねれば重ねるほど、お互いが成熟すればするほど、同じものを見て笑い合う時間は濃密なものになっていく。

これから小学生になって、中学生になって、思春期を迎えたらぎくしゃくする日が来るかもしれない。その時どんなに衝突しても、また奏が昔みたいに私と接したくなるような私でいたい。

愛情を注ぐだけでなく、母の存在がかっこいい生き方のひとつの参考になるくらい、私は私を精一杯生きたい。子どもの成長におどおどしている場合ではない。考えるのだ、自分の答えを。毎日毎日。失敗してもいい。ただそれを繰り返すのだ。

ぱすたおをつけたお母さんの髪をドライヤーで乾かす男の子

めずらしく強気に、そんなことを考えながらドライヤーを置く。いつもより3分ほど早く、髪がサラサラに乾いていた。なんだか気持ちもすっきりしている。「いいものをもらったな」と思った。

<今回のタオル>

伊藤紺さん連載【1週間のタオル】忙しい毎日を少しだけ軽くしてくれる水曜19時の<ぱすたお>

<ぱすたお>

まるでパスタのような紐状の髪専用タオル。頭に巻いて髪の毛を揉み込み、ドライヤーを当てると、乾かす時間が短くなります。

伊藤紺さん

歌人・コピーライター

伊藤紺さん

2019年歌集『肌に流れる透明な気持ち』、2020年短歌詩集『満ちる腕』を刊行。ファッションブランド「ZUCCa」2020AWムックや、PARCOオンラインストアの2020春夏キャンペーンビジュアル、雑誌『BRUTUS』『装苑』等に短歌を制作。2021年浦和PARCOリニューアルコピーを担当。過去連載に写真家・濱田英明氏の写真に言葉を書く、靴下屋「いろいろ、いい色」。(InstagramTwitter

2019年歌集『肌に流れる透明な気持ち』、2020年短歌詩集『満ちる腕』を刊行。ファッションブランド「ZUCCa」2020AWムックや、PARCOオンラインストアの2020春夏キャンペーンビジュアル、雑誌『BRUTUS』『装苑』等に短歌を制作。2021年浦和PARCOリニューアルコピーを担当。過去連載に写真家・濱田英明氏の写真に言葉を書く、靴下屋「いろいろ、いい色」。(InstagramTwitter

Photo | Ryo Tsuchida

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